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旅行記

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バングラデシュ旅行記

バングラデシュ旅行記

 旅への誘(いざな)いは、いつも唐突で妖しい魅惑に満ちている。子供の頃、初めてみたサーカスのピエロのように。

 

 2005年11月のある日、私の仕事場へ、Y旅行社からの電話が鳴った。Y旅行社は、中国雲南省、モロッコ、ウズベキスタン旅行で利用したことがある。
―――Y旅行社です、今年の正月休みのご旅行はもうお決まりですか
  いわゆる年末年始の旅行を当て込んだ、営業の電話だった。
―――いやー、なかなか決められないよ。去年みたいな事になると困るのでね

 前年の年末、私はY旅行社を通じ、北極のフォートマクマレーへの旅行に申し込んでいた。世界中で一番オーロラが見える確率が高いところだという。実は私にとってオーロラは見えた方がいいのだが、どうでもいい事であった。それよりもその地は、この時期マイナス五十度になるという事こそが大事なのであった。ところが、一度催行が決定したこのツアーは直前になりキャンセルする者が続出して、催行中止になってしまった。だからこのような皮肉っぽい返事になったのだ。
 その年の夏、私はリビアの砂漠で五日間過ごした。そこは日向だとプラス六十度、日陰では温度が下がり、それでもやっと五十度という世界だった。砂漠に入って三日目頃に旅行者の間に奇妙な事が起こった。なにかしら気持ちが高揚してくるのである。お互いに顔を見合わせては、ケラケラと笑いあった。ランドクルーザーの屋根に上って踊り始める者まで出る始末である。
 これを単にあまりに辛かったり悲しかったりした時に人が行う躁的防衛、とみることもできるが、この裏にかいまみえる悲しみや悲哀の情は感じられなかった。絶食療法と同じように、こういった過酷な状況では生き延びようとして、脳内に新たなホルモンが出現してくるのかもしれない。
 あの旅行以来、私の何かが変わったかのようだった。しかしたった十日ほどの旅行で人が変われるはずもない。変わったのは、物事に対する見方だった。
 自分の周りには、どのようにあがいてもどうにもならない、自然や道理が満ち満ちている。私はその中に溶け込むように生きていくべきなのだと。
 しかし、人が数か月のうちにプラス六十度とマイナス五十度の世界を体験したら、どうなるのだろうという思いも強くあった。この考えは一見ばかげた子供じみた思いにみえるが、私にとってすごくまっとうで大切な事だという予感があった。それにこうした冒険旅行ができるのは、年齢的にもう最後かもしれない。だから北極旅行の中止は本当に残念だった。かといってありきたりな観光旅行に参加する気にはなれなかった。
―――去年は本当に申し訳ありませんでした。その代わりといってはなんですが、面白いツアーをご用意しております。
 それはバングラデシュをめぐる新しいツアーで、いままで二回ほどしか催行になっていない。まだ建国後三十年ほどしか経っておらず、アジア最貧国のバングラデシュは、観光客を受け入れる態勢にはなっていなかった。やっと観光ルートができて、日本人だけが行き始めた状況だという。
 営業の電話ではあったが、アジアでまだ外国人旅行者が行っていない国があったのだという発見が、私の眠っていた探検心を呼び起こしてしまった。
 私はその日の仕事が終わると、すぐに大きな書店に直行した。確かにバングラデシュに関する旅行記は一切刊行されていなかった。よーし行ってみよう・・久しぶりに旅をしたいという意欲がわいてきて、胸が高まるのを感じた。

 ここでバングラデシュという国の、おおまかな概要だけは記しておこう。
 北海道の二倍ほどの領土に一億四千人もの人々が暮らしている。これは都市国家を除くと、世界で一番人口密度の高い国である。
 国のあちこちを、ガンジス・プラフマプトラ・メグナ川の支流が流れており、ベンガル湾で発生するサイクロンに度々襲われ、その度ごとに大規模な洪水が発生する。
 1947年にパキスタンとして独立したが、東パキスタンは西パキスタンに支配される形となり、それに反発して解放戦争が起こり、1971年にやっとバングラデシュとして独立する事になった。
 宗教は83パーセントがイスラム教徒で、ヒンズー教徒も16パーセントいる。
 1990年の国民一人当たりの年間所得は二百ドルにも満たないという、アジア最貧国である。

 私達を乗せたバスは、ダッカ市内を走っている。度重なる水害に見舞われているせいか街全体が薄茶色にくすんで見える。歩道の端の方にはきまって、粗末な服を着た路上生活者達がありきたりの布と棒きれや板でねぐらをつくり、横になっていたり、座りながらうつろな表情でぼーっと前を見ていた。
 南国とはいえ、冬の朝は冷え込む。バスの中でも長袖の上に厚めの上着が必要なくらいだ。薄い毛布にくるまり、それでも寒いのか、あちこちで焚火がたかれていた。このような光景が延々と続いている。
 市内のあちこちに小さな運河がはりめぐらされていて、そこにはきまって細く長い棒を何本も河の中に突き立てた上に、まるでタカアシガニが突っ立ったような形で、いくつもの粗末な小屋が隙間なく並んでいる。住宅事情が悪いので、たとえ河の上であろうと家を建て、住んでしまうのだ。
 バスが踏切の前で停まった。列車が通るすれすれの所に、木切れと布で組み立てた粗末なスラムが、ずーっとむこうまで、ぎっしりと並んでいる。
 向こうの線路を「ファーン」と警笛を鳴らしながら、列車がゆっくりと通っていった。反対側の線路の上では、籠を頭にのせた物売りが行きかい、子供たちがレールの上で遊んでいる。子供たちは皆はだしだった。何日もシャワーすら浴びていないのだろう、髪の毛はほこりと汗で薄茶色に変色し、顔は汚れとあかで黒ずんでいる。
 アジアの他の国の首都に比べると明らかに交通量が少ない。私達のバスの左隣に人々を乗せたバスが並行して走っていた。回りの金具が殆ど赤さびていて、フロントガラスにも大きなひびが入っている。右側の車体の横腹に穴があいていて、そこから乗客の足が見えていた。旅の始まりだというのに、こういった光景を見ながら私たちは皆おし黙ったままだった。
 建国者が祭られている公園に着いた。日比谷公園ほどの大きさがあり、芝生と花壇が気持ちよく配備されている。たくさんの人々が思い思いの形で寝そべっている。入場料がいるせいか、比較的裕福そうな身なりの人が多い。
 私達が中央の道を歩いていくと、日本人である事が解ったらしい。
「ジャパン」
「ジャパン ナンバーワン!」
「ドンノバット(ありがとう)!」
という声があちこちからかかり、拍手が起こった。寝そべっていた人達が起き上がり、拍手の波が続いた。
 思いもかけない事だった。今まで生きてきて、このようにたくさんの人達からの賞賛を受けた事がない。思わず顔が赤らみうつむいてしまった。
 日本人はバングラデシュへのODAでは世界で最も多く、同じアジアの先進国として尊敬されているのだという
 帰国して調べてみると、確かに各国で比較したODAの金額では一番多いが、二番目のアメリカと三番目のカナダの金額とほとんど変わらない。それにアメリカとカナダのODAは殆ど贈与だが、日本はしっかり円借款という形で貸し付けている。また国際機関は日本の五倍もの額のODAを行なっている。ただ日本は橋を作る時の技術協力や、農業支援での人材派遣を惜しみなく行なった。こうした人とのつながりでの支援が感謝されているらしい。
 建国者の廟の前まで行くと、ここにも周りにたくさんの人垣ができている。私達は皆、神妙な面持ちで、廟の中の棺に向かって手を合わせた。すると、人々の間から数人の少女が、恥ずかしげな素振りを見せながら進み出た。そして自分たちの摘んだ花束を、我々に向かってさし出した。 
 この国では、訪ねてきた人に対し花束を渡すのが礼儀らしい。この後も、旅の先々でこのような花束の歓迎を受けた。

 ダッカ市内を過ぎてしばらく走ると、周りはのどかな田園風景になっている。あたり一面がからし菜畑になると、周りがパアッと明るくなった。鮮やかなうす黄色の花々と若々しい茎や葉っぱの控えめな緑が、際やかではあるが安らぎのある色彩を放っていた。
 先ほどから、バスの前をパトカーが先導して走っている。この先導は、州の境で交代しながら旅の終わりまで続いた。これもまたして初めての体験だった。ODA第一位の国民はこのような国賓なみの待遇を受けるのかなと、最初は悦にいっていたのだが、後になってこのような警護をするにはそれなりの理由があるという事が解った。
 バスが給油の為に、ガソリンスタンドで停まった。ぶらぶらとあたりを歩いていると、周りに地元の人達が集まってきた。私達を遠巻きにしてもの珍しそうに、じーっと見つめている。硬い表情で何も言わずに見つめられていると不気味ですらある。
 ガイドのヒワドさんが、この人達は外国人というものを初めて見たので戸惑っているのです、と説明をしてくれた。
 バスに乗り込む際に「アッサラーム(さよなら)」と挨拶すると、やっと何人かが少し微笑みながら「アッサラーム」と返してくれた。

バングラデシュ旅行記

 今日の目的地であるバハルプールにある、世界最大規模の仏教遺跡、ソマプーラ・ビーハラを見学する。つい最近、世界遺産に登録されたそうである。なるほど巨大である。壁面に残るスラコッタ装飾が圧巻だった。
 大きな観光地だというのに、周りにはジュースやらスナック菓子を売っている屋台が数軒あるだけだ。子供たちが集まってきた。さすがに外人には少し慣れているのか、照れながらも笑顔が見える。それにしても、この国の子供たちの瞳はなぜこんなに輝いているのだろう。
 私がその子たちをデジカメで撮り、その静止画像を見せると、まじまじとその画面をみつめていた。
 しかし、ビデオを撮っている人がいて、その動画を見せると、もっと驚いたのだろう、その周りからウワーッという驚嘆の声があがった。私の前にいた子供たちもそちらにすっ飛んでいってしまい、私の前には誰もいなくなってしまった。

 正直言って、バングラデシュの食事にあまり期待はしていなかった。外国との交流もあまりなくこのように貧しい国では、当然味は洗練されていないと思ったからである。
 ところが、これがなかなかのものだった。近隣のインド料理やタイ料理のいいとこ取りをしたような味付けであった。そんなに辛くもなく、あっさりもしておらず、日本人の味覚にすんなりマッチしていた。但し、一日二回はカレーが出てくる。
 私はインドに三回行っているが、インドでの朝食はカレーで始まり、昼も夜もカレーという事になる。これが十日間続くのだが、私はこれがまったく苦にならない。
 ところで、こういう所でカレーを食べる時、私はスプーンを使わず、手で食べることにしている。まずごはんの皿の端っこを少し開けておき、そこにカレーの具を持ってくる。そこに適量のごはんを加えると、右手の指を使い、少し揉むようにして混ぜ合わせる。こうする事によって、グルタミン酸等のうまみ成分やごはんから適度のねばりけが出てくる。ここで、ただスプーンで食べるのとは全く違った味になっているはずだ。
 この時すでに敏感な指先から、これから食べようとする物の温かみや触感が、脳のうまみを感じる中枢(こういう所があるかどうかは知らないが)に伝わっている。我々の脳はすでに、うまさを感じるスタンバイ状態になっているのだ。
 次に、右手の中指を少し下にして、人差し指と薬指をあてがい、要するに右手の三本指をスプーンのような形にして食べ物をすくい、これを曲げた親指をのばしながら口の中に押し込む。
 口の中に食べ物が入った瞬間に、思わず「うっ、・・うまい」とうなってしまうのである。

 今日はこれから、ある村を全く予告なしに訪問する事になっている。この訪問は旅の予定表には書かれていなかった。しかし私はこういうことをある程度期待していたので、日本からボールペンとアメ横で買ってきた飴をスーツケースの隙間にたくさん詰めてきた。
 出発するひと月ほど前、私のクリニックにF社のMRさんが来て、面談を終えた後、
―――先生、これお使いになってください。
と言い大きな箱を渡すと、逃げるように、そそくさと帰っていった。なんだろうと思いながら、開けてみると、三色ボールペンがぎっしりと詰まっている。
 よく見ると、そのボールペンの横にはすべてバイアグラという文字が印されてあった。他ではよっぽど渡しづらかったので、こんなに余ってしまったのだろう。しかし、なんで私の所に置いていったのだろうか・・・

バングラデシュ旅行記

 その村は、大きな椰子やバナナの木の林の中に囲まれるようにしてあった。中に家々が点在して集落を作っている。一軒だけレンガ造りで屋根が瓦でできた村長の家があり、残りは薄い木々を張りあわせて壁を作り、その上にトタン屋根が申し訳なさそうに乗ったような家が殆どであった。まず我々は村長の家に行き、挨拶をして訪問の許可を得た。
 村を歩いてみると、木と石だけでできた農機具が点在していて、人々が脱穀したり製粉の作業を行なっている。小さい頃、田舎でこのような情景を見た記憶がある。それに農耕民族である我々のDNAが感じるのであろう、なにかしら懐かしくほっとする風景だった。
 気が付くと、うわさを聞きつけて何百人もの人々が集まってきていた。もちろん外国人を見るのが初めての人ばかりなのだが、この村の人達は皆、人懐っこそうな表情をしている。子供たちがたくさんいた。
 そこで私はここぞとばかりに、あのバイアグラのボールペンと飴を配りまくった。たちまちのうちに私の周りには黒山のような人だかりができあがった。ひとしきり配り終わると、ここで私はおもむろに、バックからチャキ(小型のポラロイドカメラ)を取り出した。
 しかし、ただ撮って渡すだけでは面白くない。そこである事を思いついた。写真を撮った後、まだ白いフィルムの上で私がなにかしら呪文を唱えると、私の念力により、写真が出来上がるという趣向である。これで人々は私の事を超能力者のように敬うのではないだろうか。
 子供たちを並ばせて写真を撮った後、目をつぶってまだ真っ白のフィルムにおもむろに手をかざした。真剣な面持ちで「ムニャムニャ、ウー、根性だ、ヤー、気合いだ・・・」と呪文のようなふりをして呟いていると、クスクスという笑い声が聞こえる。目を開けて見渡すと、周りは爆笑の渦となっていた。さすがにこの企みは、ばれてしまっていたようだ。おまけに写真を渡そうとすると写した子供たちの間で取り合いのけんかが始まってしまった。
 早々に子供たちを撮るのは諦めて、周りを見ると、あちこちで日本人と村人との交流が行われている。剣玉の妙技を披露している人もいるし、ビデオを廻している人は相変わらずの大人気である。
 子供を腕に抱いた母親がたくさんいた。その子供たちの顔は異様で、歌舞伎の隈取りのように眉や目の周りが墨で縁どられている。わたしの傍にいた英語が少し話せるおじさんに聞くと、これは悪魔や病気に対する魔除けだという。母親たちが盛んに子供の写真を撮って欲しいと訴えている。
 この村の子供は、五歳までに四分の一が死んでしまうという。予防接種もなく、医者もいないこの村では、このような魔術に頼るしかないそうだ。いつ死んでしまうかもわからない子供のせめて写真でも欲しいという、切実な願いがよく解った。それからは、子供と母親の写真をたくさん撮って手渡ししてあげた。
 さっきから同行して通訳してくれたおじさんに、お礼にと安物のサングラスを進呈した。早速かけさせてみると、映画俳優の誰かのようによく似合っていた。
 私たちがバスに乗って手をふると、村人たちもワーッと歓声を上げて、手をふった。
 皆、はじけるような笑顔だった。

バングラデシュ旅行記

 モングラ港の船着き場は、たくさんの小舟で賑わっている。小舟の殆どが艪船で、器用に足で漕いでいる者もいた。この港は世界最大のマングローブ林が続くシュンドルボン国立公園の中心地で、ここからクルーズ船に乗って、船上で一泊する事になっている。クルーズ船は全長20メートル程で、一階が食堂、二階が客室、三階がデッキと操舵室になっている。ここでも、もの珍しそうに、たくさんの人達が我々の乗船を見守っている。
 しばらくクルーズした後、上陸して密林を探検することになった。この森林の中にワニやサル、シカ、そしてベンガルタイガーが棲息しているという。我々の前をライフル銃を構えた森林保安員が、周囲を警戒しながら歩いた。
 見上げると、左右から張り出した枝や葉っぱが日の光を遮っていて、辺りは仄暗い光に覆われていた。シカの糞がたくさん転がっている。シカを狙っているタイガーもこの辺に潜んでいるのかもしれない。
 しばらく歩くと、森林保安員が虎の足跡を見つけた。虎が近くにいるのかもと、不安になって辺りを見回す我々に、ガイドが「虎は夜行性だから心配ない」としきりに言う。しかし、ここで私は突然、ベンガルタイガーの生態という本の中に「・・・しかし、時には昼間、人間を襲うこともある」と書いてあった事を思い出した。
 別に命が惜しいわけではないが、虎に食われて死ぬのではあまりにも末期が悲惨すぎる。あの世で会う父や母にも申し訳が立たないであろう。
 それまでのんびり歩いていた私は、この後は、どこから襲われてもいいようにと、集団の真ん中あたりをキープしつつ、あたりを見廻しながら慎重になって歩いた。
 一時間ほどでこの探検は終わり、幸い虎に襲われることはなかったが、鹿や猿などの動物の影すら見る事ができなかった。

 クルーズ船に戻ると、夕刻のひと時の間を、船はゆっくりと航行し始めた。ベンガル湾の地平線の上には、ぽっかりと夕日が浮かんでいた。
 その上空はあいにく、灰色の千切れ雲に遮られていた。夕日はその勢いを海上に現し、きらきらと茜色にゆらめく光の帯を、投げかけていた。
 Tさんがその日の真下に手をかざし、「これが手の平の夕日」と言い、ころころと夕日を転がしてみせた。

 船は先ほど上陸した地点の沖合にゆっくりと停泊した。そこに一艘の艪船が近づきクルーズ船の船尾にロープを舫った。明日の早朝に始まるかわうそ漁の船だった。八キロも先から艪を漕いできたのだという。
 その船は古ぼけていて、真ん中に漁に使う大きな網が畳んであり、後ろの居住部分は、竹を編んで作った屋根で覆われていた。小さな七輪があり、そこで食事を作ったり暖をとったりするのだろう。
 先端にかわうその入った檻があり、一人の少年がその世話をしていた。十四、五歳であろう、やさしそうな顔つきをした少年で、しきりに四匹のかわうそに向かってなにか話しかけている。かわうそ達もその少年になついていて、少年の差し出す手にじゃれついている。
 そういえば、あいさつを交わす程度でまだバングラ人とじっくり話したことがない。私はこの少年と会話をしたくなった。通りがかったガイドを交えて話し始めた。
 その少年の名前はダリムと言う。兄弟が多く貧しい家なので、一年前からかわうそ漁の親方の家に預けられ、漁を習っている。漁は面白いが、親兄弟と離ればなれになった事がつらいらしい。「でもどうしようもない事だから」と、ぽつりと言った。
 しかし、ダリムは始めに私の方をちらっと見ただけで、警戒しているのか恥ずかしいのか、私の方を向こうともしない。どうも、一方的に立ち入った質問をしたばかりで、会話にはならなかったようだ。
―――明日の漁はうまくいくといいね。
 そう私が言うと、少年はこくりとうなずいた。

 船の右舷にボートが近づいてきた。武装した警官が四人乗っている。ヘルメットをかぶり防弾チョッキを着て、手にはライフル銃を携えている。いかにも、物々しい雰囲気だ。
 私たちを集めると、日本人のツアーガイドが言いにくそうに説明し始めた。
―――実はこのあたりは海賊がよく出没する所なんです。私達が得た情報では、今夜あたりに活動する可能性があるとのことです。先ほど警察署に連絡し、警護の要請をしました。ご安心ください。
 一難去ってまた一難とはこの事だ。しかしこういう状況下で、「ご安心ください」はちょっとないだろうと思った。
 この国はわずか三十年ほどの歴史の中で七回ものクーデターが起こっている。他の貧しいイスラム教国と同じように、イスラムゲリラのテロもあるのだろう。北部では少数民族の反乱も起こっているらしい。そうすると、今までのパトカーの先導といい過剰と思えるような警護といい、納得がいく。
 これも帰国してから解った事だが、世界で一番海賊の被害が多い国はインドネシアで、バングラデシュは二番目に多い。そしてその被害のほとんどが、ここシュンドルボン地区で起こっている。
 ここの海賊は夜停泊している船を襲う。金品を奪った後、迷路のように入り組んだ支流の中に逃げ込む。もし追手が出たとしても、追跡するのは不可能だろう。
 港で我々の乗船を見守っていたたくさんの人々の中に、海賊の子分がいたとしても、おかしくはない。さっそく海賊の頭領に注進におよび、
「親分、今夜のクルーズ船には、あの金持ちの日本人共がたくさん乗っています。これを黙って見逃す手はありませんぜ。」
「よーし、皆の者、出撃じゃー」
 今頃、海賊のアジトでは襲撃の準備に大わらわになっている事だろう。

 その夜、私はなかなか寝つけなかった。旅の終わり頃に一人になると、いつも思ってしまうことがある。自分はこんな所で何をしているのだろう。帰った後、何事もなかったかのような顔をして、又あの都会の日常生活を送るのだろうか。
 デッキの手すりに寄りかかると、先ほど上陸したあたりを見やった。そしてその方角に耳を傾けてみた。獲物を求めうろつき始めた虎の咆哮や、襲われた鹿の断末魔の叫び声が聞こえないかと思ったからである。
 しかし何も聞こえなかった。しんとした静寂が森を覆っているようだ。わずかに一度、「ホッ、ホー」という梟の鳴き声が遠くに聞こえた。
 その静寂さはかえって私の五感を鋭敏にさせる。
すると、ゆったりとした森の息吹を感じる事ができた。私は、その森が発する青々とした空気をおもいきり吸い込んだ。
 その静かな息吹に混じって荒々しくせわしない息づかいが伝わってきた。襲撃の合図を待って潜んでいる、海賊たちの気配である。殺気である。いまにも飛び出しそうな眼をらんらんと見開き、片手にはいましがた抜いたばかりのサーベルを握りしめて・・

バングラデシュ旅行記

 幸い、何事もなく夜が明けて、武装した警官たちは、早々と下船していった。
 五時半になると、かわうそ漁の船が漁場に向かった。私達はボートに乗ってその後を追う。船が支流に入ると、その川面は乳色の朝靄に包まれていた。十メートル程の川幅の両岸にはマングローブや種々の水草が群生している。その奥に、はてしない密林が覆いかぶさるように続いていた。
 河に突き出た枝々には、カワセミが停まっていて、身じろぎもせずに川面に目を凝らしている。 
 大きな葉っぱだと思っていた二メートルはある大とかげが、のっそりと動きながら密林の中に姿を消した。
 かわうそ漁は、まず二本の竹竿の間に張った網を水中に入れる。この網の中にかわうそ達が魚を追い込む、網を上げる、という単純な仕掛けになっている。
 漁が始まった。まずダリムがかわうそ達を水中に放つ。かわうそ達は始め川の上流に泳いで行き、突如反転して別々の方向から網の方に向かった。
 タイミングを見計らい、二本の竹竿を使って網を引き上げると、残念なことに一匹の小魚も掛かっていなかった。
 二回目の漁で、数匹のワカサギ程の小さな魚が、網の中で跳ねるのが見えただけだった。
 漁を終えた船が、別れを告げに近づいてきた。ダリムは、やさしげに、かわうそ達に取れた魚を与えている。
 そうだ、と私は思って、急いでカバンの中からチェキを取り出した。残っていた最後のフィルムで、ダリムとかわうその姿を写真に収めた。そして「ダリム!」と叫びながら、大きく上体をのばし、まだ真っ白いフィルムを、やっとのことで彼に手渡した。
 ダリムは、驚いたような訝しげな表情で、そのフィルムをじっと見つめていた。河の流れに乗って、思いのほか早く、船はどんどん遠ざかっていく。
 少しずつ昇りはじめた朝日が、川面を照らし始めた。川面にはまだ靄がたちこめているが、その靄はゆらゆらと川面の空気に溶け込んでいくようだった。

 突然ダリムがこちらの方をふり向いた。そして伸び上がるように大きく、私に向かって両手をふった。満面の笑みを浮かべていた。
 ダリムがなにかを叫んでいたが、その声は朝靄を含んだ重たい空気にはばまれ、どうしても聞こえなかった。
 

バングラデシュ旅行記

2017-02-10 10:00:00

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